【6時間目】子供に先生に敬意をはらえと教えるの・・・ちょっと待って

f:id:HELon:20211203114450j:image

こんにちはです

 

たまに見かける先生を敬意を払いなさい思想

ちょーーー嫌いです

今日はそんなお話

めあて:尊敬はされるものだ

さて、根本として敬意を払わなくてはいけない人間というものはいるのでしょうか??

いるとしたら、それは生きとし生けるもの全てでしょう

っと、そんな大それた話をするわけでもなく

私はよく思うのですが、なんで尊敬できる理由もない人達に敬意を払わなくてはいけないのですか??

 

尊敬はさせるものではなく、されるものでしょう

私は年上だからとか立場が上だからとかそんなことで人を敬うことは決してありません

これから先もありません

展開:正直腹が立つだけでしょ?

ぶっちゃけて、子供に同じ目線で接せられる事に腹が立つだけではないですか?

本気でその子達の将来や未来を案じて先生には敬意を払いなさいと指導してるんですか??

 

どうも、日々を忙しく過ごす先生達はいつのまにかその日を、その週を、その月を、その年を無事に過ごすことに必死になる

 

自分よりも幾ばくかしか生きてきていない人間に対等かそれ以下のように扱われたり思われたりするのがとても気に食わない

瞬間的にでもそう思ったことはないですか?

正直、私もあります

だからこそ言える

 

私を含めた貴方達教師なんて大したもんじゃないですよ

 

お金さえ出して、ある程度真面目にしていれば誰でも教員免許なんて取れるんですから

 

我々の真価が問われるのはむしろ教壇にたってからなのですよ

教員免許なんて紙切れや先生という肩書きなんてなんの意味も持ちません

 

さらに言えることは子供達はそもそも学校に行きたいと自ら考え行動し入学してないが、教師は学校で働きたいと言う主体的な理由のもと子供達と接していると言う点

 

その上で、「私は先生ですよ!失礼のないようにしなさい!!」というのは言語道断でしょう

というか、なんか恥ずかしい・・・

 

いや、子供達にとって必要な事なんだと主張されると話が冒頭に戻ってしまって無駄なサイクルに突入しそう

そんな、我々が心配しなくても本気で子供達と向き合っていれば心に響きます

 

そもそもが子供達を教師達よりもあらゆる面で未熟な存在であると認識していることから間違っている

確かに未熟なんですよ!知らないことやできないことも多い

だから教えるんです

そうなんです

でも、私は自分にできないこと自分のわからない事考えもつかない事を持っているのも子供だと思います

だから、私は子供達にいつも尊敬できるところを感じている

 

あの思ってもいない

「すごーーーい」

とかではなく

本当に

「すごい・・・」

と思える瞬間が山ほどある

 

教師を尊敬する事は少ないけど

子供を尊敬する事は多い

まとめ:それでも目上の人に敬意を払うべきと教える

またも色々と少々辛辣に思うがまま私の考えを述べてきた今日のお話しでしたが、それでも目上の人には敬意を払いましょうと教える必要はあるのでしょう

 

私は教師の目標とすべきところは

子供達の20年後の姿

にあるとここ数年ずっと言っています

 

20年後(あくまでおおよそ)、社会に飛び出していった時に先輩や上司に敬語の1つも使えないようでは仕事なんかできません

ある一定の事はできなくてはいけないでしょう

 

特に小学校で言えば低学年におけるそう言った指導はとても大切

当たり前ですが、中学年だろうが高学年だろうが大切な事です

中学生も高校生にも言える事

 

でも、学校現場とは人と人とがぶつかり合いながら教師と子供が共に成長していく場です

信頼や尊敬を持てない人間からは何を言われても学びは少ないと言えるでしょう

 

その子達の未来はわかりません

なので、押し付けると言う事は私は良く無いと思っている

私の考えはあくまで自分の人生の1つの参考として欲しい

なので、「先生に敬意を払いなさい!」と強く指導する事を否定しているわけでは無い

あくまで、私の考えである

強要もする事はない

でも、逆に他の先生も子供達に自分の考えを強要してほしくない

結果的に、それぞれの先生の素晴らしいところを参考にして子供達が社会に貢献したり自分の人生を幸せなものにしてくれたらそれでいいと私は思っている

【5時間目】嫌われる先生の原因第1位は・・・??

f:id:HELon:20211126173343j:image

※先に断っておきます!毎度ながら完全に私の主観で話を進めていく当ブログですが、今回はその中でも特に主観的です 

その上でお読みください笑

 

子供達に嫌われる先生の原因ってなんだと思いますか??

結構たくさんあると思いますが、私が色んな子から聞いた感覚では(自ら聞きに行ったわけではない!笑)

えこひいきする先生

だそうです

 

本当によく聞く

「あの先生はえこひいきするから嫌い」

 

しかし、まあほとんどの先生は意図してそんなことするはずがありません

先生って基本、いい人多いですから

(他の業種の方がそうではないと言うことでは決してない むしろ教師でない人の方が個人的に尊敬できる)

おそらく、自分の意識してないところでひいきしているか、子供達にひいきと思われるような行動や発言が癖づいているかでしょう

めあて:教師のえこひいきの原因って何??

なんなんでしょうね

教師の子供たちへのひいき目

 

その大きな原因となっているのが、私のブログでよく登場する正解主義的思考

(これ、勝手に私が言ってるだけの言葉なので元々あるような、立証されてるような、学術的根拠のあるようなことばではないですからね笑笑)

展開:正解主義的思考がもたらすえこひいき

そもそも、子供に対してひいきすることに躊躇いの無い人や積極的に優越をつけるような教師は個人的に論外だと思ってるので、そこは置いといて・・・

 

あくまで、「なぜか子供にひいきしてると言われる」と言う先生にフォーカスしてお話しします

 

私はずっとずっと言ってることなんですが、学校教育は正解、不正解に取り憑かれてると思っています

例えば、

・廊下を走れば✖️ 歩けば〇

・授業中、関係のない話をすれば✖️ 静かに聞けば〇

・授業中、たくさん発表すれば〇 てもあげず、発言もしなければ✖️

教師の言うことを素直に聞けば〇 聞かなければ✖️

 

あれ?最後の1つはまさにえこひいきではないですか?

 

おそらく、そんなつもりないのにひいきしてると思われる先生ってこの正解主義的な考え方が根付いてしまっている

というか、それが教師の責務だと思っている

 

たしかに、それも言える

なんでって、

・人を殺しても良い

なんて正しいはずがない認められるべきことでもない

・理由もなく人を殴っても良い

なんて言う事は今後世界がどう変容しても許される事でない

 

ならば、正解不正解があってそれを子供達に享受していく事はとても重要且つ必要な事だと思う

 

しかし!!

そんなに白黒はっきりしたものばかりがこの世の理なのでしょうか??

それは断じてない

むしろ、人の世は人間が複雑怪奇な脳を所有した段階で至極グレーな要素が大部分を占めるようになった事は言うまでもないでしょう

 

根底には確かに〇✖️があります

ただ、グレーな部分が8割を占める大海で白黒は2割を占める陸上です

だから、法律も判例がある

だって、刑法199条の条文だけでは殺人を犯してしまった人に対してより適切な刑罰を加える事は不可能であるから

 

そんな人の世にあって、教師が正解主義に囚われ過ぎればそりゃあ歯車も狂い出す

 

教師が子供によく言う事ですが

「自分がされて嫌な事は人にもしません」

 

僕から言わすとあなたたちもしてますよ

だって、子供に強く叱責して保護者から何か言われた時には

「そんなつもりで指導したわけではない」

とか

「こういう思いがあったのにわかってくれない」

とか言うやん

 

一緒でしょ

廊下を走った子には何か理由や思いがあったのかもしれない

授業中一切発言しない子が授業意欲がないとどうしていいきれる?

先生の言ったことが守れないとダメなんですか?

 

言い出したらキリがないが私は凄く引っかかる

ひいきしないからあの先生は好きなんて低レベルな事を子供達に思わせてはいけない

まとめ:正解主義を中和せよ

しかし、先に行ったようにやって良いことダメなことは間違いなく存在する

でないと、世の中は無秩序のカオスな世界と化す

特に発達段階によっては、顕著にやって良いこと悪い事を教える必要がある

(低学年の先生にはいつも感心する)

 

しかし、現に子供を自分より知識も経験も乏しく未熟で下に見ている教師は多くいると感じる

「いや、そんな事はない!失礼な!」

と言われても

「確かにある!自覚しろ」

と思う

彼らには私たちよりもはるかに大きな可能性とやわらかい脳がある

我々の尺度で子供たちを測ってはいけない

 

何度も言うが、正解主義を否定はしない

とても大切な事で必要不可欠な事だと思う

しかし、それを中和する必要がある

より濃い正解主義的思考を薄めて飲みやすくしてやる必要がある

 

その中和剤が子供を思う事だと思っている

正解主義的思考ももちろん子供を思ってのこと!

彼らの為に大切な事として指導する上で全く子供を思っている

でも、本当にそれがあなたや指導する子供達の為に大切な事であろうか?

考えてみるのもいいと思う

 

とはいえ、私は十人十色色んな先生がいるのがいい!!

と強く考えている

小学校なら6年間

出会いの少ない子供達にとって様々な考え方を持つ先生と出会える事はとても貴重な経験であると・・

その貴重な6人が全て同じ考え方だったら?

こんなに成長のない小学校生活は無い

 

だから、聞き流してくれて構いません笑

先生は先生の個性を存分に生かして欲しい

そこに子供達への熱い思いがあるのであれば子供にいかに嫌われても先生達の努力の日々は必ず彼らの人生の素晴らしく大きな宝となると僕は信じているので

【4時間目】今、本当に教育現場に必要な事は何か・・・

f:id:HELon:20211122181005j:image

全ての先生たち

自分の今やっている教育は、本当に必要な教育ですか??

 

私は周りの人達からよくこう言われます

「変わり者」

そして、親しい人からは

「常識のない人」

 

日本の教育現場では、この常識をとても大切にしますよね??

様々な場面で・・・

さて、それはそんなに大切でそんなに必要な事なんでしょうか?

(あくまでも最低限の常識は必要です!その上での話をしています!あしからず、、)

教育者にとって今、子供達に伝えなくてはいけない事はなんなんでしょうか??

少し考えていきましょう

めあて:今を生き、これからを生きる子供達にとって本当に学ばなくてはいけない事

さっそくですが、私のような無名でなんのインフルエンス力もない人間の考えなど基本的に聞く耳持たん!という感じでしょうから、私の尊敬する人間の1人、ホリエモンこと堀江貴文さんの言葉をかりましょう

彼の言葉で私が最も好きなのが

"トライアンドエラー"

 

あれ?ありきたりですか??笑

そうでしょうね

ほとんどの人がこの言葉の意味を答えられます

"挑戦し、失敗する事"

ですね

しかし、意味は分かっていても日本人の多くはこれを真剣に本気で実践する人は非常に少ない

そして、悲しいかな教育現場では子供達に挑戦する事は大切と言いながら本気の挑戦は阻止して、失敗する事もいい事だと口では言いながら失敗をいかに回避するかを必死で教えるのです

 

さて、今の教育現場を生きる皆さん

今やっている教育活動は本当に子供たちの為になっていますか?

展開:本当に学ぶべき事を学べる先生なんてほとんどいない

ほとんどいないでしょう

本当にはっきり言いますが、私はそう思います

だって、算数も国語も社会も理科も数学も物理も家庭も体育も・・・

教科書がありますから

わかりやすい参考書が本屋で売っていますから

学び方まで教えてくれる本だってあります

スマホがあればどんなわからない事も数分で知る事ができて、英訳だってしてくれます

塾も市民権を得て、今では多くの子供達は小学校の時分から塾に通っています

 

もちろん、基礎学力はとてもとても大切です

そして、学校は皆平等に学ぶ権利を保障すべきです

なので、私のいっている事は授業なんかしなくていい!適当でいい!なんてことではありません

 

でも、それが教師の心の奥の奥の核の部分となってはいけないのです

時代は変わったのです

学校が始まった時とはもう違います

教師の心の奥の奥の奥の奥の奥の奥の核となる部分はもっと違うものでないといけません

 

だから、こんな事を言いました

「本当に学ぶべき事を学べる先生なんてほとんどいない」

と・・・

とりあえず授業して、とりあえずやれと言われた公務をこなして、本音なんてない会話をしながら、今の自分を守りながら、当たり前のことを当たり前のようにしか言わず、見たことも会ったことも無いような人が決めた教育課程にしたがって、研究授業が当たれば仕方なく研究し、終わればいつもの通り、自分達のしている事は社会に必要な事だと深く考えもしないで思い込み、たまに出るボーナスを楽しみに、廊下を走る行為は完全悪で、大きなあいさつをする行為は完全善と信じて疑わず、自分達がしなくてはいけないことや本当に取り組まなくてはいけない事もわかっているのに常識と生活、社会的地位を言い訳にしていつまでものらりくらりと毎日を過ごしている先生達からは学ぶことなんてほとんどない

 

なんで、偉人と言われる人達の名言が心に刺さると思う??

それはその人達の生き方が言葉に乗るからです

私も今回したようによく教師は名言を借りて子供たちに聞かせます

私は思う

全く意味がないと

なぜならあなたの言葉でないし、生き方でもないでしょ??

 

終身雇用はかつては日本を世界有数の経済大国にし、ベテランが若手を教え模範となり発展させました

これは、尊敬すべきドラッカーもその著書で述べています

が、こと教育現場ではもはや陳腐化していると言えます

終身雇用にあぐらをかいて荒波をたたないように定年を迎える事に目標を置いている

その皺寄せは一部の懸命に子供と向き合う教師へと向かう

 

全ての先生達へ

真剣に子供に必要な事を考え、挑戦し、言い訳をせず、今を生きる事を教えてあげてください

 

そうすれば、あなたの発する一言一言が子供達にとっての名言となります

まとめ:最も変わらないといけないのは子供ではない、教師である

例えば、もうこれからは沢山勉強して賢くなって就職すれば生きていけるなんて事は言えません

現実に一般的に成功を収めている人達の多くは別に高学歴でも華々しい経歴があるわけでもありません

 

・・・とここまで書きましたが、多分誰も行動しないでしょう

これはこれまた好きな事で生きている私の尊敬するある人が言っていましたが、どれだけモチベーションの上がる言葉を聞いても、その場で心を動かされても9割ちかい人々は結局何もしません

そして、したとしても継続しません

だから、これからも学校では静かに先生の話を聞く子が評価され、よりリスクを負わない教育によって挑戦する心の育たない子供達が育っていく事でしょう

 

みんな、そんなに一生懸命ルールを守る事を子供達に教えなくても今の日本ならそれしかできない子供しか育たないのでご心配なく・・・

【3時間目】発問が何故かうまくいかないと悩む教師達へ・・・発問のうまさは授業理解以上に授業の雰囲気を作る

f:id:HELon:20210701213053j:image

こんにちはです。

いつもいつも担任として学校現場で働いてきましたが、主にTTとして働いた時期がありました。

その時すごく感じたのが発問の重要性

「そんなことは百も承知よ」

と言われそうですが、私が着目したのは授業を理解するという観点からの発問の重要性ではありません。

では何か?

めあて:発問は授業雰囲気を左右する

授業の形態にもよりますが、発問は教師がとる子供たちへの語りかけの主たる言語です。

この発問。

教育界ではかなり重要視されます。

指導案にも書いたりしますしね。

しかし、多くの教師はその発問を考える中でメインに考えているのはいかに子供が授業内容を理解できる手助けとなるかという目線において発問を考えています。

そして、発問において最も大切なのはその言葉や内容ではなく主たる授業者の口調や雰囲気なのです。

展開:発問に対する考え方を転換

1.学習支援という見方から授業雰囲気作りという観点へ

先に述べたように、あくまで発問は学習支援という範疇を超えるものではありません。

それは間違いない。

しかし、発問の重要性は学習支援がメインでは無いと考えております。

では、何か??

それは、授業雰囲気作りです。

これが不思議なもので、発問1つで子供達の授業内での発言が変わります

簡単に言えば、

「発問の下手くそな奴の授業では、子供は発言する機会が減る」

という事。

より具体的な例を挙げれば、

"威圧的な発問を連打する教師"

例えば、

「手をあげる人が少ないなー」

など、教師の意図とは反して受け手は威圧的に感じています。

まあ、これは発問ではないかもしれませんが・・

2.誘導発問は正解主義を生み出す

この事実については、また別の授業で話そうと思いますがよくあるのが

研究授業などで意図している内容の発言がでず、誘導発問で意図する方向へ導こうとする

という場面

これは教師がその授業を計画通りに進めたい、終わらせたい、自分の思い描くストーリーで完結させたいと言う思いからくるものです

 

だから、教育界で行われるほとんどの研究授業はたいした意味をなさないとかねてから考えている訳ですが・・・

この事に関してもまた後日お話ししますが、これに輪をかけてええ格好したい、批判されたくないという訳の分からない感情の下誘導発問が行われる

 

しかしながら、普段から授業雰囲気や子供の素晴らしく大切な多種多様の考えを最大限に引き出せるような発問をしていれば話は別

 

いくら、教師が誘導発問をしたとて、子供たちは自分の思いを赴くままに発言する事でしょう

 

正直、数十年しか子供達より生きているだけで、指導書を持っているだけで教師の考えが子供達の考えより優っているとは考えにくい

おそらく、担任してきた子供たちの中の何人もの人間の方が今の自分よりも将来的に賢く、そして社会貢献する素晴らしい人間となる

(もちろん、担任してきた全ての子供達が素晴らしい人間となり全員が社会に何かしらの形で力を注ぐような人間になり、一人一人に素晴らしい価値がある事は大前提としている)

 

いかに教師よりも子供達の考えや言葉1つ1つの価値の方が高いのかよく考えればわかるはずである

 

正解主義的な考え方は日本人は大好きだが、これからの未来を作っていく子供達にはどうかそれを強要しないでもらいたい・・・

発問はそれぞれの教師のこの部分があらわに出てしまう部分である

(私は別に正解を求めることが間違っていると言っているわけではない 世の中には正解があるものはそれはそれはたくさんあるから 算数で1+1=2でないといけない しかし、実は1+1=2ではなかった、などと言う事実を発表するような人間が出てこないとも限らない あらゆる可能性をつぶしてはいけない それが我々教師の使命であると考えている)

まとめ:全ては1つの事を意識すれば解決する・・・

発問は教師の日々の授業の中の中心的な活動です

故にここはとても重要な事

実は発問は授業内の子供とのコミュニケーションなんです

発問の仕方一つで子供は、

「この先生は私のどんな考えも拾ってくれる」

「この先生の授業なら発表してみようかな」

「うちのクラスの授業は楽しい」

ついには

「このクラスでよかった!!」

と思えるようにもなるのです

 

逆に日々の発問次第では、真逆の感情がうまれる事もある

私はそんな状況を沢山の子供達から直接聞いてきました

 

発問で意識すべきポイント一緒です

子供のことだけを考えて発問する事です

いつも私が言っていること、

教師は子供の事だけを考えなくてはいけない

これを甘い考えと言う教師がいたら、逆にお前らが甘いと言い返してやるつもりです

言い訳するな

目を背けるな

学校は教室は、子供なんだ

教師じゃない

仕事だからという逃げ道を作ってはいけない

発問もそうであると思います

子供の為になるように常に考えて発問をしてもらいたいと思います

 

【2時間目】職員室が苦しい・・・教師同士でうまくいかない悩み

f:id:HELon:20210625164533j:image

「これから2時間目の授業を始めます!礼!お願いします!!」

 

2時間目の授業です。

 

今日は「教師同士でうまくいかない悩み」について

めあて

教師同士同士でうまく関係が築けないことで悩む先生方って結構多いと思います。

まあ、私みたいな??変わった教師は悩む事も少ないとは思いますが・・・笑

 

パワハラモラハラ・・近年では、教師同士でのいじめなど色々な事が報道されていますね。

 

はっきり言います。

「はあ??お前ら、何しにきてんの??」

 

今日の授業のめあては教師同士うまくいかないストレスについてです。

展開

1 職員室と教室

さて、職員室と教室。

この2つはかなり違った雰囲気をもつ空間です。

おそらく、学校で働いたことのない人々には決してわからないものだと思います。

故に、先生達にとって教室と職員室でそれぞれの顔があるわけです。

容易に想像つく事ですが、教室にいるときと職員室にいるときと全く違う人間関係があるのです。

なので、とてもわかりやすく

子どもや保護者の方々とうまく行っていないとき

→教室がストレス

教師同士でうまくいっていないとき

→職員室がストレス

となるわけですね。

まあ、どちらも苦しい。

その比重は人それぞれでしょう。

先生が精神を病んでしまう事実は一般的にも周知の事と思いますが、子どもや保護者との関わりだけでなく、教師同士の関係性でも心を病んでしまう事は実によくある事です。

 

2 教師同士の嫌がらせ

ここ最近、よく見かけるのが教師同士の嫌がらせ。

互いに折り合いがつかず、話をしなかったり、関わらないように努めたりしてそれぞれが少しずつストレスを溜めるならまあまあという感じですが、それが嫌がらせ、いじめに発展する事もぶっちゃけよくあります。

それもまあ、大人のやる事ですから陰湿ですわな。(ある程度詳しくはいのこり授業で・・・)

私のようなタイプの先生は、変わりすぎていて何もされませんが(自覚がある笑)

真面目な方の多い教育現場、思い悩む人も多いでしょう。

 

しかし、私から言わすと

そもそも、何しに来てんの??

という一言に尽きます。

 

すみませんが、あなたたちのような低俗な人間が来る場所ではありません。

 

というのも、皆さん忘れてしまっているのか、そもそもなんの目的もなく教師になったのか知りませんが

学校は子どもたちのためにあります

我々は子どもたちのためにいるのです。

 

教師間のいざこざなんて、本当にどうでもいい。

心の底からどうでもいい案件なんです。

3 うまくやろうとする事自体無意味

先生同士うまくいく事は素晴らしい事です。

楽しい職場であるに越した事はないです。

その雰囲気は子どもたちへの接し方にも反映される事でしょう。

 

・・・が、それはあくまで十分条件

必要条件ではないのです。

嫌がらせをしてくる教師

嫌がらせに悩む教師

どちらもいりません。

その時点で、学校で働くということに対する主語が"教師"になっています。

気づいていますか??

 

私が唱える理論の中の一つにあります。

「教師が教師を主語にしだしたらお終い」

その最たるところですね。

教師同士の関係性

 

はっきり言って、子どもからしたらどうでもいい事。

例えば、主任とうまく行っていないからといって、担任している子どもたちへ何かするわけではないですからね。

まとめ

さて、まとめですが、私は以前同じように悩む先生に対してこう言いました。

「論点がズレている。そもそも、教師としてはそんな事で悩んでいる事自体が間違っているし、そんな事で頭がいっぱいなあなたに担任してもらっている子どもたちがかわいそうだ。そんなくだらん事で悩んでるくらいなら、子どもとの一分一秒を大切にして全力で毎日を楽しめ」

私の言葉の影響とは言いませんが、その後その先生は、強くたくましく、不器用ながら一生懸命子どもたちと接して修了式では涙しながら子ども達とさようならをしていました。

 

そもそもなんです。

私の授業では、何度も出てくる事なんですが、学校は子どもなんです。それ以外もそれ以上も無いのです。

我々は、主語が教師になった時点で終わります。

喜怒哀楽の先はいつでも子どもでなくてはいけません。

「それでもしんどいものはしんどい」

「お前に何がわかる!!!」

そういう人がほとんどでしょう。

しかし、あえて言いたい。

「お前こそ、何も分かっていない!!自分が被害者だと思うな!被害者は子どもたちだ」

 

いらぬことに構わず、子どもだけに目を向けられるようになるといつか楽しく美しく、感動の涙に包まれる学校生活が待っています。

どうか、希望を捨てないでください。

あなたのクラスの子どもたちは、あなただけを見ています。

そんなくだらないその他の教師の事なんか視界にも入っていません。

子どもだけを見てください。

大丈夫。

 

ポイント

悩む先を教師から子どもに向けてみよう!!

【1時間目】どんな教育の書籍を読んでも、いくら研究してもうまくいかない先生達へ・・・

めあて

これから1時間目の授業を始めます!礼! よろしくお願いします!

 

初任の先生方

臨時講師の先生方

子供たちの前に立ち、授業を始めてしばらく経ちました

3学期制の学校では、もうすぐ夏休み

忙しい時期に入ってきますね

 

沢山の笑いと涙、喜びと楽しみ、傷つけ傷つけられ、感動と感謝・・・

教室にはそこでしか感じる事のできないものが山ほどあります

 

ほとんどの人は、一生のうちに教室で過ごす時間よりもそれ以外で過ごす時間の方が多い

教室、学校というのは実に不思議な空間で、何十人と言う人間と期限付きでありながら濃密な時間を過ごします

そして、一度卒業してしまうとそんな場面にはもう2度とと言うほど出会うことはないでしょう

 

先生という仕事は、そこに関与できる。

担任ともなれば完全にクラスの一員

そこにはものすごい特別な感情が生まれます

ここが先生という仕事の1番のやりがいとも言えるでしょう

いい意味でやめられなくなるのです

 

たーーだ

先生というものは、そんな美しい事ばかりの仕事でないのです

まあ、どの仕事もそうであると思いますが・・・

 

しかし、このように言うと多くの先生達はこう思うでしょう

先生のしんどい場面は

・子どもとの関係性

・保護者との関わり

・教師同士の繋がり方

・公務の多さ、仕事の多さ

・教師としてのあるべき姿

・公務員としてのあるべき姿

などなど

 

これが、現場に出た時にぶち当たる理想とは違う先生のしんどさ・・・

 

しかし!!私はそうは思わない!!

どれもこれも必然です

そして、なぜか

・子どものせい

・保護者のせい

にしだします

 

私からすると、先生という仕事をしていて数多くの矛盾を感じます。

行動も心情も・・・

 

私がなぜこのようなコンテンツを始めたのか??

はっきり言います。

今の教育現場に嫌気がさしたからです。

学校の全ては、子供です。

そして、そこに最も関わり影響を及ぼすのは担任の先生を含めた子供と接する教職員です。

教育委員会の人間でも、

文科省の人間でも、

ありません。

 

それはなぜか?子供たちと心を交わすのは、長い時間を接する先生だけだからです。

だからこそ、先生として子供たちと生活する中で"大切にすべきこと"は一つしかありません。

先生として学級経営に沢山のテクニックを打ち出している教師は沢山いますが、どれもこれもこの"大切にすべきこと"がその先生の心情に存在しなくてははっきり言って何の意味も持たないただのツールです。

 

これからの日本を、世界を変えていける可能性を持ち、将来を支える子供達のために我々はあるべきです。

正直、先生の事なんてどうでもいい。どうなってくれても構わない。

教員について述べられているコンテンツの多くは、教員の事を考えて書かれているものがほとんどです。

教員の仕事に関して、検索する時には

・教員 仕事 メリット

・教員 安定

というキーワードで検索する人がほとんどなんでしょう。

どこが子ども主体やねん。

どんな心持ちで教員をしてくれても構いませんが、子供の貴重な一年を無駄にする事だけは許せない。

少しでもそう言った子供達を減らすことができるように、世の先生方、先生になろうという人たち、子供に関わる人々に贈る授業として始めます。

 

 

この一分一秒も子供達の成長するための時間は進んでいます。

私の考えに関心のある方々は、私の授業をお読みいただけたらと思います。

では、授業を終わります。

 

これで1時間目の授業を終わります!礼!ありがとうございました!